化学賞 1962年に関する質問

化学賞 1962年 ノーベル賞

世界的にも権威があるノーベル賞ですが、これって同じ人が二回以上受賞するもあるんですか?くだらない質問で申し訳ありませんがご存じの方いましたら教えてください。

  ノーベル賞の詳細


化学賞 1962年 小林・益川理論は僅か6ページしかないんですが

数学の論文だと100ページとか200ページのほとんど数式の論文は珍しくありません。たった6ページの論文でノーベル賞を受賞したというのは信じがたいのですが。

  小林・益川理論は僅か6ページしかないんですがの詳細


化学賞 1962年 水素化カリウムの比重

水素化カリウム(KH)の比重をご存知ないでしょうか?試薬で販売されているものはパラフィン油が入っており、水素化カリウムの粉末のみの比重がわからず困っています。

  水素化カリウムの比重の詳細


化学賞 1962年 急性白血病の予防

アンディフグ選手が急性白血病で倒れましたが、この病気を予防する方法というのはあるのでしょうか。

  急性白血病の予防の詳細


化学賞 1962年関連エントリー

1962年のノーベル賞

L.ポーリングは1962年のノーベル平和賞を受賞したけれど、 同じ年度の生理学・医学賞はDNA構造の解明でポーリングのライバルだった ワトソン&クリックとM.ウィルキンスが受賞。 また化学賞はタンパク質のX線構造解析で M.ペルーツとJ.C.ケン ...

1962年のノーベル賞

今度はノーベル化学賞だ

... ノーベル物理学賞に続いて、ノーベル化学賞でも日本人の下村脩さんが受賞する運びとなりました。おめでとうございます。 評価された業績は ... 1962年、オワンクラゲから、発光物質としてイクオリンというたんぱく質とGFPを ...

今度はノーベル化学賞だ

ノーベル化学賞に下村脩氏、「蛍光たんぱく」

ノーベル化学賞に下村脩氏、クラゲから「蛍光たんぱく」 スウェーデン王立科学アカデミーは8日、2008年のノーベル化学賞を ... 下村氏は1962年、米シアトル近郊のワシントン大臨海実験所で、オワンクラゲの体内から ...

ノーベル化学賞に下村脩氏、「蛍光たんぱく」

今度はノーベル化学賞、下村脩氏が受賞

... ノーベル物理学賞3氏に続き、ノーベル化学賞に米ウッズホール海洋生物研究所の元上席研究員の下村脩氏(80)が ... その仕組みを研究してきたが、1962年オワンクラゲから発光物質としてイクオリンという蛋白質とGFPを ...

今度はノーベル化学賞、下村脩氏が受賞

1962年

... 受賞が決まった 下村氏の研究論文発表は1962年です その後 70年代にメカニズム解明 ... もし 医療分野での実証が 受賞の鍵なら 化学賞の受賞ではなく 生理学・医学賞で受賞ではないですか? (今回の)化学賞で受賞ならメカニズム解明した70年代後半 ...

1962年

化学賞 1962年旅行記

1962年のパリだより【838】紀元前からの歴史を刻むニーム(by ソフィさん)

化学賞 1962年

1962年3月18日(日)

ニームは、戯曲「アルルの女」の作者「アルフォンス・ドーデ」が生まれた街だ。

私はビゼーの作曲した「アルルの女組曲」が大好きで、かねてからニームの街に淡い憧れを持っていた。

私を迎えてくれたこの街は、とても明るい印象だった。

景色だけでなく、人までが明るく感じられた。


この街の特徴は、ローマ時代の古い建物がたくさん残っていることだ。

その代表格が、円形競技場だった。

ニームの円形競技場は、1世紀か2世紀ごろの建物だが、保存状態の良さで知られる。


2万4千人と言われる収容可能人員は、当時の人口規模からすれば、驚くほど大きなものである。

はじめはここで人間同士あるいは人間対獣の血生臭い闘技が繰り返されたのだが、やがて城砦に転用され、次いで住居となって、17世紀でも700人が住んでいた。

そして再び闘牛場として復活したのは、1853年だった。

今観覧席の上から見下ろすと、広いスタンドから、ローマ時代の狂乱に近い歓声が、湧き上がってくるのを感じる。


円形競技場と並び、良く保管されている1世紀ごろの建築に、メゾン・カレ(方形の家)がある。

ギリシャ神殿風の、柱列が並ぶ建物だが、不思議と端正な感じがする。

この建物も、役所、厩舎、教会と役割を変え、所有者を転々と乗り移りながら歴史を刻んできた。

入り口の階段が15段なのは、第一歩を右足で登り始めれば、最終歩も右足となるからと言われているが、何のことか私には判らない。


石造りの文化は、寿命が長い。

ヨーロッパ文明が計画性を尊ぶのは、こんなところから出発しているのだろう。


メゾン・カレから歩いてほど遠からぬ所に、泉水公園がある。

名前通り見事な湧水があって、三島の柿田川公園を凌ぐほどの量だ。


公園の奥に小高い丘があり、マーニュ塔が立っている。

マーニュとは、「大きい」の意味である。

この塔は、紀元前15世紀ごろに築かれた大規模な城壁の名残と言う。

その城壁には、塔が30もあったと伝えられる。

この街が、そんなに古くから地中海貿易の拠点だったということか。


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  • (片瀬貴文 79歳)

    【旅行時期】1962/03/18~1962/03/18
    【エリア】ニーム
    【テーマ】歴史・文化・芸術
    【投稿者】ソフィ

    1962年のパリだより【837】マッシフ・サントラルを南北に縦断する(by ソフィさん)

    化学賞 1962年

    1962年3月18日(日)

    昨夜遅くパリ・リヨン駅を出たランジャック行きの夜行列車は、マッシフ・サントラル(中央高地)に向け、ひたすらに南下している。

    いつもならば、南フランスに行くには、パリ→リヨン→マルセイユの経路を通るのだが、今回クレルモンフラン経由を選んだのは、今までに見ていない新しい地域が見たいからだった。

    列車は、フォンテーヌブロー辺りからリヨン方面行きの線路より分岐して、ロワール川の上流を進むようだ。


    どこからか、ぐっすり寝てしまった。

    見逃すまいと思っていたクレルモン・フェランも、目が覚めたら通り過ぎていた。

    この街は、ギド・ミシュラン(ミシュランガイド)を生んだ、ミシュランタイヤの発祥の地である。


    目が覚めたとき、列車はマッシフ・サントラルの真ん中を通り過ぎつつあった。

    山また山、岩がごろごろしていて、あまり大きい木は無い。

    所どころ、日本を思い出すような、段々畑。

    私のしばらく住んでいた岩手県の、北上高地に似た景色である。


    なだらかな起伏の山が連なって、その間に深い谷が刻まれている。

    こんなところに住んでいる人は、さぞ厳しい環境を生き抜いているのだろう。

    終点のランジャックは、そのような山に囲まれた、こじんまりした街だった。


    ここでニーム行きの、可愛いディーゼルカーに乗り換える。

    山が深くなるにつれて、気温も下がって来たようだ。

    粉雪がちらつき、川も凍っているように見える。

    セヴェンヌ山脈を、横切っているのだろう。


    やがて谷が開け始め、見る見る南国の風を感じる風景が展開する。

    その変化は、まさに劇的だ。

    そして光豊かな国、プロヴァンス。

    ディーゼルカーの終点ニームに着いたのは、正午過ぎだった。


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    【旅行時期】1962/03/18~1962/03/18
    【エリア】クレルモンフェラン
    【テーマ】鉄道・乗物
    【投稿者】ソフィ

    1962年のパリだより【836】紳士風の帽子にちょっと照れながら旅に出る(by ソフィさん)

    化学賞 1962年

    1962年3月17日(土)

    午後は、久しぶりにパリの中心部に買物に出かけた。

    パリには百貨店が少なくないのだが、総じて東京や大阪などのものより小型で、品揃えも少ない。

    しかしパリは、世界における百貨店の発祥の地とされている。


    初めて世界に(パリに)誕生した百貨店は、「オー・ボンマルシェ」とされる。

    百貨店の前身は、「マガザン・ド・ヌーボーテ(新しい流行の諸々を売る店)」だった。

    それが次第に品揃えを増やし、大型化していって、「グランマガザン(百貨店=直訳すれば大型店)」に進化した。

    「オー・ボンマルシェ」の発足は1852年だが、「グランマガザン」へと進化したのは、1869年とされている。


    そのころ、夫は外で働き、妻は職業を持たずに家庭を守ると言う、家庭での男女の分業パターンが生まれた。

    それまでは、「夫も妻も働かない」貴族階級と、「夫も妻も働く」庶民階級の、二つのパターンしかなかったらしい。

    このように生まれた「専業主婦」は、新たな社交の場を求めており、百貨店の大きな発展理由は、その場を与えたことと推察する。


    最初に行ったのは、「バザール・ド・ロテル・ド・ヴィル(通称BHV)」だった。

    ここで59フラン(4,250円)の靴と、5.5フラン(400円)で毛糸編みの膝まである靴下を買ったが、もう一つ買いたかったものとして、気に入った帽子が見つからない。

    そこで「サマリテーヌ」に行き、さらに「グラン・マガザン・ルーブル」まで長い道を歩いて、ついに41フラン(3,000円)で、気に入ったものを見つける。

    これをかぶれば急に紳士になった気分になり、やや照れくさいが、明日からの旅にはピッタリと思う。


    夜23時10分パリ・リヨン駅を出る、ランジャック行きの夜行列車に乗る。

    明朝終点で乗換え、明日の正午ごろ南仏のニームに着く予定である。


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    【旅行時期】1962/03/17~1962/03/17
    【エリア】パリ
    【テーマ】ショッピング
    【投稿者】ソフィ

    御殿場線の歴史的痕跡を探す ~國府津-山北間編 明治領歌【建造中】~(by 横浜臨海公園さん)

    化学賞 1962年
    現在の御殿場線(ごてんばせん)に相当する区間は明治22年(1889年)2月1日に開通以来、昭和9年(1934年)11月30日24時までは東海道本線を形成する路線の一部でした。

    然るに、件の路線は、國府津-御殿場駅間は酒匂川流域、御殿場-沼津駅間は黄瀬川流域に沿いに建設され、殊に、山北-御殿場-裾野駅間は25‰の急勾配と急曲線とが混在する区間であり、更に、路盤工事中より、度々自然災害の発生に拠り不通になる為に、やがて此の区間は東海道本線に於ける輸送上の最大の隘路と化し抜本的改良を講ずる必要に迫られます。

    此の為、鐵道院は急勾配が無く自然災害を受け難い熱海経由の路線建設に着手します。

    然し、此の為には熱海-三島間の丹那盆地下に長大隧道の建設を必要とし、当初鐵道院は隧道建設工事工期を5年と計画し工事に着工したものの、事前の地質調査など存在しない時代とは申せ実際には想像を絶する難工事の連続に拠り、予定を大幅に超過の16年もの歳月を要し完成した為に鉄道省の計画全体に重大な齟齬を来します。

    然して、難工事の末に丹那隧道が貫通し、熱海線國府津-熱海駅間の延長と言ふ形態で熱海-沼津駅が開通し昭和9年(1934年)12月1日0時を期し熱海線全線開通と共に東海道本線に編入されます。

    当日は、『名士列車』と称され上流特権階級専用とされた東京発神戸行1、2等普通急行第17列車を以ってトリを飾るが如く最後の御殿場経由の優等列車として運転され、次いで、東京駅出発する神戸行2、3等普通急行第19列車が熱海経由の一番列車となり、大船駅出発後、次の停車駅たる沼津駅まで途中無停車ながら熱海駅通過時には熱海湾に盛大に花火が打ち上げられホームや駅構内に、はち切れんばかりの人々が集まり歓呼の声と万歳三唱が響く内、列車は丹那隧道に突入して行ったと当時の記録に残されてます。

    然し、物事には栄枯衰退が伴うが如く、12月1日0時を以って御殿場経由区間は新たに『御殿場線』と言ふ独立路線に格下られ存続する事になります。

    然れど、昔の本線たる格式は失せても風格は残り全線複線で駅構内も広く長編成対応の為にホームが長い等々、旧東海道本線たる痕跡を濃厚に残す存在でした。

    昭和16年(1941年)12月8日、帝國海軍航空隊に拠るハワイ真珠湾攻撃を以って大東亜戦争が勃発しましたが、戦争が苛烈さを増すに従い資材不足が深刻な状況となり、当時の監督官庁たる運輸通信省をアゴで使う陸軍省兵備局は国内の不要不急路線選定を行い、御殿場線全線、参宮線、関西本線奈良-王寺駅間の単線化を決定し運輸通信省に命令を発します。

    御殿場線から撤去した橋梁やレール等は折から帝國海軍から建設を強く要請されていた横須賀線横須賀-久里浜駅間や樽見線建設に廻され、更に、余剰50キロレールは品鶴線や高島貨物線の重軌条化に転用され代わりに代替品の37キロレールが御殿場線に転用された状態で終戦を迎えます。

    戦後、関西本線で単線化された区間は昭和37年(1962年)までに複線に戻されましたが、御殿場線や参宮線は一部区間たりとも複線に戻される事は無くレールが剥された路盤跡も虚しく残りました。

    また、御殿場線が未だ東海道本線だった時代、山北駅で登り勾配を登攀する為に、國府津駅30秒停車中に列車後部に補機を連結する特別急行燕号を除く全ての下り列車が列車後部に補機を連結する為に停車を余儀無くされ、当時山北駅で販売し乗客が争って購入したとされ駅弁の白眉とも称された『鮎の姿寿司』も存在していましたが、昭和14年(1939年)に販売を中止し戦後もその姿を見る事は叶いませんでした。

    現在の御殿場線は純然たる通勤通学主体のローカル線に変貌を遂げています。


    表紙は御殿場線上大井-相模金子間風景

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  • 【旅行時期】2010/04/09~2010/04/09
    【エリア】秦野・松田・足柄
    【テーマ】歴史・文化・芸術
    【投稿者】横浜臨海公園

    1962年のパリだより【835】パリ生活にも生き生きとしたリズムが(by ソフィさん)

    化学賞 1962年
    1962年3月17日(土)

    来週はヘビーなスケジュールが待っているので、今日一日ゆっくり休養して体のコンディションを整えたい。

    そう考えているのだが、いったん目が覚めたらベッドにじっとしておられない。

    まあぼんやり寝ているより、身体には良いだろう。


    久々にTさんを誘い、イギリス館で朝食。

    近頃彼の眼は澄んでいて、話をすれば心地よい魂の響きが伝わってくる。

    ドイツ女性との恋愛が、快調に進んでいるらしい。


    そして出会うたびに、しばらくは、彼女への賛辞を聞かねばならない。

    「彼女は気立てがよく、朗らかで、良く気がきく」と。

    しかし慣れの人徳もあって、このような話は気持がいいものだ。


    彼女の一家は、もともと東ドイツに住んでいた。

    しかし何かの事情で官憲に睨まれる羽目となり、一家そろって西ドイツに脱出しようとする。

    その脱出行たるや、また凄まじい。

    同時に行動すれば見つかり易いので、一人ひとり別に動き、命がけでベルリンの壁を乗り越えるのである。

    そして結局は成功して、今シュテュッツガルトに住むようになった。


    部屋に戻って、ノルマンディーでお世話になったフォンタンさんに、九谷焼の杯を添えて、礼状を書く。

    それから、洗濯、掃除、室内の整理。

    旅行の間に何が起こるか分からないので、身辺を綺麗に整頓しておかなければならない。


    ピエール・ロティを愛好するマンブルさんから、手紙を受け取った。

    ロティの古い写真を同封してくれ、復活祭にはブルターニュの別荘に招待したいと書いてある。

    もちろん万難を排して、出かけてゆきたい。


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  • (片瀬貴文 79歳)

    【旅行時期】1962/03/17~1962/03/17
    【エリア】パリ
    【テーマ】プチ留学・カルチャー体験
    【投稿者】ソフィ